2026/7/6 公開
この記事は、Quoraで公開した回答を再編集したものです(元の回答)。
英語ができると世界はどのくらい広がるか
Q. 英語をネイティブのように話せるよう読めるようになったら、自分の世界はどのくらい広がりますか?
「どのくらい」広がるのかを問う、素晴らしい質問だと思います。抽象的な精神論ではなく、できるだけ具体的にお答えしてみます。
情報量が増えるだけでは実感が湧かない
よく言われることですが、英語ができるようになるとインプットできる情報量は10倍から100倍にもなります。とはいえ「情報量が増える」と言われてもピンと来ない人が多いのではないでしょうか。日常生活において情報の「量」そのものがモノを言う場面はそう多くありません。私たちの時間は限られていて、日本語で得られる質の高い情報を追うだけで精一杯だからです。
では、世界が広がるのはどんなときか。それは何かを深掘りするときだと思います。誰でも人より好きの度合いが強かったり、こだわりを持っているポイントがあるはずです。英語がわかると、その分野で「もう一歩」踏み込める範囲が大きく広がります。
趣味・仕事・時事の分野で広がるもの
| 領域 | 英語ができると広がること |
|---|---|
| 趣味 | 私は歌が好きですが、発声のメカニズムに詳しいコーチは日本には1、2人いるかどうかというレベルでも、世界中を見渡せばたくさんいます。最新情報は英語であることが多いため、論文や本を読むだけでなく、その分野の第一人者と交流したりワークショップに参加したりと、知識が本当の意味で身になるプロセスに早くアクセスできます。 |
| 仕事 | 英語を高いレベルで使える人は限られているため、それだけで優位に立てますし、選択肢も増えます。一般に外資系の待遇は良く、たとえばITエンジニアは英語ができるだけで年収が大きく変わることがあります。ただしこれは職種による部分も大きいと思います。 |
| 時事情報 | Covid-19のような誰もが気にする話題でも、日本語の情報だけを追っていると惑わされやすい場面があります。英語で調べると全体感がつかみやすくなり、気になる論文を直接読んで理解を深めることもできます。 |
エンターテインメントとゲームで広がるもの
英語のものを日本語に翻訳すると、どうしてもかなり質が落ちたり別物になったりすると感じることが私は多いです。これは翻訳者が悪いのではなく、言語の感じ方が違う以上やむを得ないことです。一人称が「俺」になるか「私」になるかだけでも、キャラクターの印象はかなり変わってきます。以前 Netflix で観た映画『クリスマス・クロニクル』の主人公は「紳士だけれど少しワイルドなところがある」というキャラクターでしたが、日本語吹き替えで「俺」という一人称を聞いたとき、前者の要素が薄れてしまったように感じました。かといって「私」にすると今度は後者の要素が出ません。これが翻訳の限界です。字幕は情報量がどうしても足りなくなりますし、吹き替えはリアリティが失われるように感じることが私にはよくあります。声優の演技の文化的な好みの違いなのか、吹き替えというジャンルならではの限界なのかはわかりませんが、いずれにせよ両方に欠点があると思います。
ゲームについても同じことが言えます。私はPCゲームが好きでいろいろ遊びますが、日本語化されていない名作はたくさんあります。良い作品であれば有志が翻訳してくれることもありますが、そのたびに特殊な操作が必要になるのは面倒です。PCゲーム市場は非常に大きいので、日本市場だけでは採算が合わない価格でも、英語圏を対象にすれば十分に利益が出ます。結果として英語圏のゲームは驚くほど安く、セールなら1,000円前後でメガタイトルがいくつも遊べます。PCゲームの世界では MOD と呼ばれる、既存のゲームに手を加えるファンアート的な文化が盛んで、中には全く別のゲームに作り替えてしまうようなものもあります。商売目的ではないので日本語版が出ることはまれで、たとえば Dark Souls 3 を作り替えた Cinders という MOD が話題になったときも、日本語の情報はほとんど見当たりませんでした。
旅行で広がるもの
旅行が好きな人にとっても、英語の恩恵は大きいはずです。海外旅行への心理的なハードルが下がり、日本語ガイド付きのツアーに頼らず、自分で自由に予定を組んだり、その場で予定を変更して滞在を楽しんだりできます。中国でも南米でも、ある程度のグレードのホテルであれば英語は通じるので、トラブルが起きても大きく困ることは少なくなります。旅先での印象的な出会いも増えるはずです。
最終的には「広げたいかどうか」次第
とはいえ、日本語だけに閉じた生活でも素晴らしい経験はいくらでもできます。単に英語ができるから、あるいはもっと英語の勉強がしたいから、わざわざ英語のコンテンツを選んでいるだけではないか、と感じることも私にはあります。結局のところ異文化が好きかどうか、冒険を求める性格かどうかという、いわばトートロジーのような話で、世界を「広げたいかどうか」がそのまま広がり具合を決めるのだと思います。